2009年09月07日
石原裕次郎
<<< 石原裕次郎 >>> 記 中尾彰秀 詩人・ピアニスト
現代、ほとんどの御方は、大学を就職の手段と考えておられる様だが、本来は何かの
研究・勉強の為にある。私は詩人と思っているから、6回生(自主的大学院)でありながら
、就職など頭になかった。昭和51年。このころ親父が亡くなるが、天才の行く道を誰も止め
られぬ。幸いかな、入学時価そのままで、国立大よりも安い学費の立命館(今は違う)であ
った。
当時は、二つのバイトをしていた。牛乳配達と某ホテル(河原町三条)の配膳係。故石原
裕次郎氏に巡り合ったのはこの時である。
美人女優数人に囲まれ、にこやかに何か喋りながら、彼は丸テーブルに着いた。何やらの
お祝いの大宴会。ウエイター、ウエイトレスでもある我々学生は、そそくさと礼儀正しく、コップ
皿、食事を習った持ち方で各席に配膳する。テーブルの設定や片付けも含まれるから、この仕
事はかなりの重労働である。それでいてシャキッとした態度が必要。
これは自慢であるが、私は初日からとある秘訣を会得した。まだ残っているビールを素早く片
付け、その途上廊下の隅で、ラッパ飲みするのだ。十分な栄養補給イコール体力維持。で、そ
の日、素早い裏作業を済ましてから、会場に戻ると、同僚のひそひそ声がする。ぼくももらった、
私ももらっちやった、5000円。しもた(しまった)!さすが、有名俳優、チップを配っていたのだ。
現代、ほとんどの御方は、大学を就職の手段と考えておられる様だが、本来は何かの
研究・勉強の為にある。私は詩人と思っているから、6回生(自主的大学院)でありながら
、就職など頭になかった。昭和51年。このころ親父が亡くなるが、天才の行く道を誰も止め
られぬ。幸いかな、入学時価そのままで、国立大よりも安い学費の立命館(今は違う)であ
った。
当時は、二つのバイトをしていた。牛乳配達と某ホテル(河原町三条)の配膳係。故石原
裕次郎氏に巡り合ったのはこの時である。
美人女優数人に囲まれ、にこやかに何か喋りながら、彼は丸テーブルに着いた。何やらの
お祝いの大宴会。ウエイター、ウエイトレスでもある我々学生は、そそくさと礼儀正しく、コップ
皿、食事を習った持ち方で各席に配膳する。テーブルの設定や片付けも含まれるから、この仕
事はかなりの重労働である。それでいてシャキッとした態度が必要。
これは自慢であるが、私は初日からとある秘訣を会得した。まだ残っているビールを素早く片
付け、その途上廊下の隅で、ラッパ飲みするのだ。十分な栄養補給イコール体力維持。で、そ
の日、素早い裏作業を済ましてから、会場に戻ると、同僚のひそひそ声がする。ぼくももらった、
私ももらっちやった、5000円。しもた(しまった)!さすが、有名俳優、チップを配っていたのだ。
Posted by nakao at 15:58│Comments(0)
│芸術