2012年10月07日

詩人山田博を偲ぶ会

<詩人山田博を偲ぶ会> 記 中尾彰秀             詩人・ピアニスト・ヒーラー

 何故それほどまでに
 故山田博氏は
 詩を書き続けた
 小さなノートに小さな字で
 戦時の出来事を
 戦地で書き連ね
 それを基にしての詩

 上からの誤った命令で
 何億もの人々を死に追いやった
 それが当たり前だと
 思い込まされた日本人
 上からの命令?
 上とは何だ?
 これが見えぬかという具合に
 上にからきし弱い日本人よ
 国 天皇 県 市 学校
 当時のこれらは
 およそ許されるものではない

 亡くなった人々への
 弔いだけでなく
 告発なのだ詩とは!!
 2012年10月3日
 詩誌「PAM」主催の
 城久道氏の呼びかけで
 海南市はレストラン「ヴァンサンカン」にて
 「詩人山田博を偲ぶ会」が実施された

 ここに山田氏の10年前の
 和歌山文芸まつり受賞作を紹介しよう

       「歳月」

<八十年の歳月を振返ると 何よりも青年時代のことが心を揺すぶる たくさんの生命が
 失われた時代だったからだ

 戦争中働く若者は青年学校が義務付けられ 暗い夜間の小学校へ集まった 校庭では
 退役軍人による軍事教練が厳しく 校舎では専ら皇国精神を叩き込まれた 路地向いの
 長男は生徒長で私はその副だった やがて彼は現役入隊し陸軍上等兵となり まもなく
 支那大陸で戦死した

 青年団の先輩達は次々と応召し戦地へ往った 程無く英霊の無言の凱旋が続くことにな
 る 召集のため教員も不足し 熊野出身の先生の選挙によって私は 那智勝浦町色川第
 二国民学校教員となった しかし教員生活僅か一年半で召集令状がきた 急遽故郷を離
 れ鬼の金岡陸軍重隊へ入隊 殴られ張り倒されすさまじい基礎訓練を三か月 そして九州
 太刀洗陸軍飛行隊へと転属した 航空機へのガソリン補給やプロペラの始動車 貨物の輸
 送トラックなどの自動車班である だがガソリンの一滴は血の一滴と言われ 物資欠乏で飛
 行訓練もままならず 部隊そのものが海外の油田地帯を目指した

 輸送船に乗せられ貨物同様の扱いで南方へと 台湾海峡では深夜敵潜水艦の襲撃をうけ
 僚船二隻がまともに魚雷を喰らい 忽ち真っ赤な火炎をあげたとみるまに 暗黒の闇に呑ま
 れ哀れ五千名の若者が沈んだ 何とか逃れて到着した任地はマレー半島 東海岸に位置
 するクワンタン飛行場だった

 戦局は悪化し英爆撃機空襲で飛行機は大破 沖縄激戦に当たり残存機で特攻隊が編成さ
 れて 若者は潔く飛び立ったが遂に還らなかった 部隊では編成追加資材受領のため 本部
 へとトラックで向ったが状況悪く 帰路待ち伏せたゲリラの襲撃をうけ 不幸戦死の自動車兵は
 故郷以来の戦友だった

 不穏な状勢の中で慌ただしい部隊葬の後 火葬は自動車班に一任された 遺体へはゴム樹
 林を伐り出し山とかぶせ 航空ガソリン一ドラムぶっかけて火を放った 火焔は天に沖し夜半ま
 で火勢は燃え盛った やがて夜も更け焼ける遺体が見えてくる 白骨も灼熱の火奥となり 最
 後まで残っていた頭蓋骨の眼殻から 凄まじく噴き出した紫の炎 それは正しく彼の魂だったに
 違いない

 戦いは敗れて捕虜となり 英軍の監視下の強制労働二ヵ年 過酷な労役と栄養失調で倒れた
 者も多かった 潔く帰還出来た私はすぐ亡き戦友宅を訪ね 仏壇の白布遺骨箱と対面して合掌
 したが伍泥たる思いがこみあげ言葉もなかった

 戦後無事帰国した馴染みの青年団員は 僅か五名に過ぎない 一人は県庁へと就職し 縁あっ
 て海南の 「みなと公園」 工事を監督 ふるさとに貢献したが親友の彼も既に他界し  「みなと
 公園」も消え失せ消防署となった 公園にあった蒸気機関車も 室山公園へ移ってから久しい

 ・・・・・・・・・八十年の生涯はやはり歳月の深さ しみじみとした味わいである。>



Posted by nakao at 18:18│Comments(0)芸術
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